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メッセージ
Title
   わたしを愛する者 - 任職礼拝  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   箴言8:17
Date
   2015-10-04


[本文]

[箴言8:17]
「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」



[序論]

愛する聖徒の皆さん、2015年任職礼拝をささげられるように祝福してくださった父なる神様に、すべての感謝と栄光をお帰しします。今年は1人の副牧師、5人の長老、41人の勧士、7人の名誉勧士、そして1人の協同勧士、計55人が任職します。神の国の尊い任職者として任職なさるすべての方々にお祝いを申し上げます。この幸いな日、お祝いのためにご参加くださったご家族や親戚、そして来賓の皆様にも感謝いたします。
愛する任職者の皆さん、すべての聖徒の皆さん、きょうのメッセージのタイトルは「わたしを愛する者」です。皆さんは誰かをいのちを尽くして愛したことがありますか? あるいは、皆さんが誰かからいのちを尽くして愛されたことがありますか? 文字どおりいのちをも惜しまない献身的な愛、すべてをがまんし、信じ、待ってくれる、永遠に変わらない愛、世でこのような愛を見つけられるでしょうか?
わが父なる神様は、また主は、このような愛を私たちに下さいました。きょう任職する皆さんはまさにこのような愛を体験した方々です。そして、皆さんも自分なりに主を愛し、力強く走ってきたので、きょうを迎えるようになりました。しかし、きょうのメッセージを聞いて、もう一度皆さんの愛をしっかり固めますように。
聖書に登場する昔の信仰の人々はみな同じように神様を熱く愛しました。アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロ、ペテロ、ヨハネ、その他にも名前を全部挙げられないほど多くの方々が、熱情的な愛をもって自分のいのちまで主のためにささげました。このような方々を通して、今日まで神の国は盛んに建て上げられてきました。
父なる神様が皆さんに望んでおられるのも、まさにこのような全き愛です。本文[箴言8:17]に「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」とあるように、皆さんが神様を愛して熱心に捜し、神の家の管理者としての使命を見事に果たすことを望んでおられます。それで、皆さんも昔の信仰の人々のように神様からこの上なく愛されて、栄えあるところに入るようにされるためなのです。
そう遠くない日、主にお会いするとき、皆さんはどんな告白をささげたいですか?「主よ、私はまことに主を愛して、主のしもべの使命を、長老、勧士の使命を、いのちを尽くして果たしました。」このように大胆に告白する皆さんになりますように。



[本論]

愛する任職者の皆さん、聖徒の皆さん、神様を愛する働き人はどんな姿なのか、この時間、三つをお伝えします。

神様を愛する者は第一に、忠実であります。
[第一コリント4:2]に「この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。」とあります。神の国を実現するためには、献身して労苦する働き人がどうしても必要です。そのため、父なる神様はいつも「誰がわたしの心がわかって、この使命を果たしてくれるだろうか」と、全地をあまねく捜しておられます。また、まことの忠実で父の心を生き返らせる働き人には、必ず栄光と祝福をもって報いてくださいます。
きょう任職する皆さんはすでにそれぞれの分野で忠実を認められた方々です。「これからはさらに忠実であろう」という覚悟でこの場に臨んだでしょう。
ところで、[ヨハネ6:63前半節]には「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」とあります。私たちの忠実も、肉的な忠実ではなく、必ず霊的な忠実であるべきです。霊的な忠実になるには、まず罪と血を流すまで戦って捨てる、心の割礼が必ずなければなりません。教会のかしらとなる務めを受けたのに、憤りや悪い感情、高ぶりや欲などを持っていて、神の栄光を遮ったり、人をつまずかせたりするなら、どうして忠実な働き人だと言えるでしょうか。
また、霊的に忠実である人は自分の栄光や利益のためではなく、主のために、聖徒のために務めを果たします。肉的に忠実な人は主よりは人の目を意識します。教会と聖徒のためというより、自分の栄光、自分の利益を求めます。このような人たちは、一時は水火も辞さないで熱情を尽くしているように見えても、歳月が経つと、結局移り変わったりします。
神様を愛する者は、労苦と献身を誰もわかってくれなくても、主が知っておられることだけで満足します。主の恵みに少しでも報いることさえできるなら、それで十分なのです。これが霊的な忠実です。神様が「誰にわたしの働きを任せようか」と、この地上をあまねくご覧になるとき、皆さんを見て喜ばれますように。「あそこにいる! あのしもべなら、あの長老なら、あの勧士なら、わたしの心をもって果たしてくれるはずだ」とうれしく思われますように。

愛する任職者の皆さん、聖徒の皆さん、神様を愛する者は第二に、聖められるために努力します。
人は誰かを愛したら、相手についていろいろと知りたくなります。どんな食べ物が好きで、どの色が好きなのか、どんなプレゼントをあげたら喜ぶかと、その心を知って幸せにしてあげたくなります。
神様を愛する者も同じです。「父にどうすれば喜ばれるだろうか」「父は今私に何を望んでおられるだろうか」と、その心と望んでおられることをいつも探り窮めます。
神様が私たちに最も切に望んでおられ、喜ばれることは何でしょうか? それは子どもたちが聖められることです。[第一テサロニケ4:3前半節]に「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」とあります。[第三ヨハネ1:4]に「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。」とあります。この他にも、聖書のあちこちで「聖くなりなさい、聖められなさい」と言っておられます。
まして皆さんは教会の柱のような働き人です。すべての聖徒の模範となるべき務めを受けています。その分、誰よりすみやかに聖められるべきだし、羊の群れにも聖潔を教えなければなりません。
私は初心の者の時から聖書を精読し、「しなさい、してはならない、守りなさい、避けなさい・捨てなさい」というみことばをいちいちノートに書きました。その内容を握って祈りながら、できたものは一つ一つ線を引いて消していきました。心の罪の性質まで完全に引く抜くために断食と祈りで生きました。
そして、主のしもべとして召され、数多く神の力を行うようになっても、一万余りの支教会を持つ大教会になったとしても、「これぐらいならいい」と思って止まりませんでした。「今、これが父がご覧になって完全な姿なのか。主ならどうなさるだろうか」と絶えず顧みて、完全になるために努力しました。
きょう任職する皆さんも、神様を愛して、今まで力の限り聖められるために走ってこられました。しかし、もう一度お願いします。主が再び来られる時まで、聖潔への熱情が決して冷めてはいけません。「もう悪をずいぶん捨てたし、人からも認められる務めをいただいた。前よりもっと多くの時間労苦して、忠実に仕えている」と思って、安住してはいけません。
信仰の岩の上に立ち、御霊の歩みに入り、それどころか全く聖なるものとされても、責められるところのないように霊、たましい、からだが完全に守られるように努力しなければなりません。自分は本当に悪はどんな悪でも避けているか、小さい者たちを自分よりも優れた者と思っているか、まことに相手の利益を求めているか、食べるにも、着るにも、何をするにも、自分の言葉と行いがただ神の栄光を現わしていて、人々の徳を高めているのか、いつも自分をチェックしていきますように。

愛する任職者の皆さん、聖徒の皆さん、神様を愛する者は第三に、魂を愛します。
人間を耕作しておられる神様が夜も昼も心を遣い、最も気をもんでおられることは、魂についてのことです。教会には良い心で主を受け入れ、熱心に信仰生活をしている聖徒もいますが、祈る力もなく、みことばを行う力もなく、悩んでいる聖徒もいます。試練や患難の中で苦しんでいる聖徒もいます。また、世には、主を受け入れていなくて死の道へと向かっている人々がとても多くいます。
父なる神様の心を知っている人は彼らに顔を背けることはできないでしょう。ひとりでも多く救われるように、まめに伝道したり、訪問したり、施しをします。弱い人々を励まし慰めて、みことばのとおりに生きるように顧みます。罪を犯している人を見ると、心を引き裂いて、とりなしの祈りをささげます。そうするとき、皆さんの愛を受け入れてくれる人もいますが、逆らって立ち向かう人たちもいます。
エジプトから出て来た当時、イスラエルの民は十の災いと数えきれないほど神の力を体験したのに、少しだけ困難にあうとつぶやいて腹を立てました。それどころかモーセを石で打ち殺そうとまでしました。
皆さんがモーセならどうしますか?「私は最善を尽くしたけど、あの聖徒はとうてい可能性がなさそうだな」「自分の力ではあの聖徒を変えさせられないだろう」と思ってあきらめるでしょうか?
モーセは彼らのために自分のいのちをかけました。[エジプト32:32]に「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」と告白しました。
使徒パウロはどうだったでしょうか? 人間としては耐えがたい苦しみを受け、死の危機を数えきれないほど経験しながらも、パウロは自分のことを顧みませんでした。ひとりでも多くの魂が救われるように、主の福音を伝えることだけにもっぱら集中しました。
まさにこのような昔の信仰の人々のような愛が皆さんの心にも満ちていなければなりません。死にかけている魂をご覧になっている主の視線に皆さんの目が向かい、弱い魂のために流される主の涙が皆さんの目からも流れますように。魂のために生きていく尊い使命、魂のために犠牲になるうるわしい務めを、主の心をもって完全に果す幸いな皆さんになりますように。



[結論]

愛する任職者の皆さん、聖徒の皆さん、皆さんはきょうから新しい出発をします。今までも熱心に主の道を走ってこられましたが、これからはさらに労苦して献身し、それぞれの分野で忠実に仕えなければなりません。キリストの満ち満ちた身たけにまで達するまで変えられるためにいつも努力しなければなりません。また、すべてを信じ、がまんし、期待し、耐え忍ぶ愛をもって多くの魂を心にいだかなければなりません。そのように力を尽くして走っていく一瞬一瞬、父なる神様が、主がどのように自分を愛されたのか、その愛を覚えておきますように。そして、きょう、主にささげた皆さんの覚悟と愛の告白をいつも覚えておき、すべてのことにおいて圧倒的な勝利者となりますように。
この道の果てで、私たちは花婿なる主のふところに、また父のふところにいだかれるでしょう。そのとき、「これはまことにわたしの心を生き返らせた者だ。わが愛する息子だ、娘だ」と、父にほめられる皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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