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| 万民ニュース   第 142 号 | HIT 4771 | DATE 2014-08-24
 
私の信仰は岩にどれくらい近いのか?



イエス様はマタイの福音書7章24-27節を通して、信仰の岩に立とうとするなら、みことばを聞いて行う賢い者にならなければならないことを教えてくださった。

信仰の岩に立つために捨てるべき九つの心といくつかのケースを調べて、自分の信仰をチェックしてみよう。



信仰の岩に立つために捨てるべき九つの心

憤り いまだに一瞬「ムッ」としたり、我慢するために努力しなければならない時があるか?フッとかんしゃく混じりの口調になって、感情混じりの言葉をポンと投げていないか?自分で憤りがほとんど感じられなくてこそ信仰の岩に立てる。


悪い感情 指摘や叱責を聞くとき、周りから仕えてもらえないとき、苦労しただけ代価が与えられないとき、他の人たちが認めてくれないとき、自分は悪くないのに誤解されたり不利益にあうとき、気を悪くしたりむなしくならないか?あるいは力が抜けて気を落とし、祈る力や使命を果たす力さえ湧いてこないなら、まだ悪い感情を捨てていないのだ。


憎しみ、ねたみ、そねみ 他の人が自分より愛されて認められ、ほめられるとき、自分の心はどうか?この一つだけチェックしてみても、自分の心が真理を喜ぶ御霊に属する心にどれほど近づいたのか、でなければ遠いのかがわかる。


偽りと欺く心 自分の利益のために相手をだましたり話をでっちあげること、自分の功を目立せようと、ないことをあることのように報告したり、実績をふくらませて報告すること、自分に不利なことは削ったり隠したりすることなど、こんな姿はすべて偽りであり欺くことだ。今、目の前にある現実を隠すのに汲々として、嘘をついてだます人は神をも欺けると思う人である。


さばくこと 人はふつう容貌で相手を判断したり、自分の考えや知識など自分の基準に合わせて相手を判断する。しかし、これはさばくことである。うわべに見える行いは同じでも、人によって心が違い、それをする意図と目的が違うこともあるので、下手にさばくことはできない。ただ心を見られる神だけが知っておられる。


移り変わること 日常生活の中でも、その時々に移り変わって、自分との約束はもちろん、他の人との約束、さらには神との約束も簡単に破っていないのか、チェックしてみなければならない。


姦淫 行いで犯す姦淫は言うまでもなく、異性を見て心に情欲を抱くこと、思いで犯す姦淫さえ徹底的に捨てなければならない。敵である悪魔・サタンが人を死へと引いていくために最も手っ取り早く、最もしつこく惑わすものが姦淫であることを必ず覚えておかなければならない。


欲、私心、むさぼり 欲とむさぼりがあれば、他人が持っている物質を欲しがり、名誉、権勢、容貌までもうらやんで欲しがるようになる。また私心とは、さまざまの情欲や欲望を追って個人的な利益を求める心であり、これからいろいろな不正が起きる。このようにして手に入れた物質はますます世的で情欲的なものを追い求めさせ、結局神から遠ざける(ヤコブ1:15)。


裏切り 裏切りは移り変わること、ずるがしこい心と関連があり、自分の利益を求める心、嘘をつく心、高ぶりとも関連がある。このような悪が複合的に作用して、裏切りという悪を生むようになる。恵みを受けたことを忘れること、自分の利益のために一緒にやってきた人々に背を向けること、相手と約束して期待させておいて、その期待に背くことも裏切りだ。


信仰の岩に立てないケース

1. 霊的なことを「慕う心」が足りない場合

「いつかは変えられるだろう」という安易な思いを持っているなら、多くの時間が流れても変えられない。御霊の歩みを切に慕うこと、必ず変えられようという切実さ、新しいエルサレムへ行こうという切なる心、牧者を見習おうと近づくことは御霊の人に変えられるのに最も重要な道だと悟って行うこと、このようなものがあってこそ変えられる。


2.「欲」によって肉の思いを働かせる場合

まだ捨てられない「欲」が肉の思いを生んで、自分の利益を求める行いとして出てくるようになる。このように自分の中に悪が残っていれば、これによって肉の思いが働く。自分では肉の思いだと悟れないだけでなく「このくらいは大丈夫」「神の国のためだ」と自分の悪を正当化する。


3. 心と口に「不満」がある場合

自分の行動と他の人の行動に違いがあるとき、善をもって理解して相手の長所を見てあげようとするよりは気に障る。心と口に不満が多い人はその原因を他人のせい、環境のせいにすることが多い。しかし、こんな心は誰かが与えるものでもなく、周りの環境が作るものでもない。それは悪い感情、義と枠、自分の中の肉から出てくるのだ。


4.「高ぶり」のため自ら錯覚している場合

みことばをたくさん聞いても、そのみことばに自分を照らせないのは、自ら高ぶって錯覚しているからだ。「私はいい人だ。父なる神様を愛して牧者を愛している。」このように自己的な善の中に閉じ込められやすい。高ぶりは自分の姿を悟らせないだけでなく、周りが指摘して勧めてあげても、それを認めなくさせる。


5. 自分の「強い枠」による場合

人と一緒に働きながら、強い枠のために人を傷つけて平和を壊しながらも「私はこんなに忠実に仕えている人だ」とだけ思う。また、父なる神様と主、牧者を愛するとは言うが、霊の愛で愛するより肉の愛と情に縛られていることが多い。肉的な情と愛を与えれば、さびしくなることがある。


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