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Title
   信仰を測ると (7)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   エゼ 47:1-5, 出 20:3
Date
   2011-06-26


[本文]

[エゼキエル47:1-5]
「(1、2節省略)その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。 」

[出エジプト記16:8]
「モ―セはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」


[序論]

愛する聖徒の皆さん、「信仰を測ると」七回目です。
神の国の働きには、さまざまな人物が登場します。まず、働きの中心には「神の人々」がいます。ここで「神の人」とは、神ご自身が選んで立てられ、いつもともにおられる人のことです。その人を用いて、神だけがおできになる驚くべきことをなされるなど、神がともにおられる証拠を現わしてくださる人を指しています。アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、ダビデなど、彼らは各時代に神のみこころと摂理を成し遂げられる道具として用いられました。
そして、彼らの周りには、二つのタイプの人々がいました。神の人を愛して、彼とともに神の国を見事に建て上げて、祝福される人々がその一つのタイプです。また、もう一つは、神の人を憎んで立ち向かい、自分から祝福を退けて、かえって災いにあう人々です。
皆さんは後者を見て、「彼らはなぜそんなに愚かな道に向かったのだろう。もどかしい。理解できない」と思われるでしょう。ところが、実は私たちも、必ずそのどちらかには属することを覚えなければなりません。私たちが生きているこの時代にも、神は神の人を用いて、みこころと摂理を成し遂げておられるからです。
皆さんは、はたしてどちらに属しているでしょうか? 当然、神の人を助けるほうに立っているでしょう。また、皆さん自身がみこころを実現する主役になりたいと慕っているでしょう。これは神も願っておられることです。
この時間、神の人に立ち向かった人の結末を振り返ってみましょう。メッセージを聞いて「決してそんな愚かな道は行くまい」と固く決断しますよう主の御名によって祈ります。


[本論]

聖徒の皆さん、救われない罪、第四は、神の人に立ち向かう罪です。
聖書にその例が本当にたくさんありますが、きょうはその中のいくつかだけを調べましょう。
まず、神の人モーセに立ち向かった人がいます。神はモーセが200万人を超える民を導いてカナンの地に向かう途中、いつもともにおられ、モーセのすべての言葉と行ないを確かなものとしてくださいました。モーセを用いて、人としては決してできない驚くべきことを行なうようにされました。彼が神の命令に従って行なえば、葦の海が分かれて、天からマナが降り注ぎ、岩から水が出て、苦い水が甘くなるなど、本当に驚くべきしるしと不思議が現れました。これによって、イスラエルの民なら誰でも、モーセが神の人であることがわかりました。
それでも民は荒野の生活で苦しい時がやって来ると、モーセにつぶやきました。[出エジプト記16章]を見ると、民が食べるものがなくて飢えるようになって、モーセとアロンにつぶやきます。すると、モーセはそのつぶやきがまさに主に対してのつぶやきであることを悟らせます。[出エジプト記16:8]に「モ―セはまた言った。『夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。』」とあります。
エジプトから出て以来、モーセはどんなことも自分の思いどおりにしないで、ただみこころを実行する代理者でした。アロンはこのモーセの預言者でした。ですから、このふたりに対してのつぶやきは主に対するつぶやきだと言ったのです。
イスラエルの民がサムエルに王を立ててくれるように求めた時も、神はこれと似たことを言われました。[第一サムエル8:7]に「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」とあります。
これらによって、神は神の人に対してしたことを神に対してしたことと同じように思われることがわかります。神の人に立ち向かう罪が救いと直接的に関わりのある理由がまさにこれです。
その結末がどれほど惨めなのか、[民数記16章]の「コラとその仲間の反逆事件」でよくわかります。エジプトから出る旅の中でレビの子孫「コラ」という人が共謀して、名のある者たち二百五十人とともにモーセに立ち向かった事件があります。
この時、コラと共謀したダタンとアビラムはモーセを次のように非難しました。[民数記16:13-14]に「あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け繼ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」とあります。
神ははたして彼らの言うことが正しいと認めてくださったでしょうか? そうではありません。かえって厳しくさばかれ、彼らの悪とモーセの潔白を確かに見せてくださいました。そして、彼らはモーセが彼らに臨むさばきについて口にしたとたん、生きながらよみに下ってしまいました。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに屬するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんでしまいました。これに加わった二百五十人は主のところから出た火に焼き尽くされたのです。
ところで、彼らが悔い改める機会も与えられないまま、さばかれた理由は何でしょうか? 彼らはそれまでモーセを通して現れたしるしと不思議をたくさん見ました。それで、モーセが神がともにおられる神の人と知っていながらも立ち向かったのです。これは、その心がすでに立ち返れないほど、サタンに捕らわれていたことを物語っています。神は彼らが機会を与えても立ち返らないことをご存じだったので、民にまでこの罪が広がらないように、直ちにさばかれたのです。
私たちはこれによって、自分の悪によって神の人をさばいて罪に定め、逆らう罪がどれほど恐ろしい結末を招くのか悟れます。また、このような罪が一定の基準を超えると、「救われない罪」を超えて「死に至る罪」になることがわかります。彼らに悔い改める機会さえ与えられなかったのは、それまで神の御前に悪を積んできて、その悪が立ち返れる限度を超えたからでした。
ですから、皆さんの心からこういう罪がすこしでも発見されるなら、直ちに悔い改めて立ち返りますように。また、完全に引き抜くようにお願いします。
聖徒の皆さん、神は神の人をさばいて罪に定めたり非難する罪もまた、決して赦されません。モーセの兄アロンと姉ミリヤムも例外ではありませんでした。[民数記12:1-2]を見ると、アロンとミリヤムがモーセがめとっていたクシュ人の女のことを非難します。「主はただモ―セとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」と言って、自分たちもモーセほど正しい人だと言いました。
ところが、神は断固として彼らを責められました。[8節]を見ると「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモ―セを恐れずに非難するのか。」と御怒りを燃やされました。するとミリヤムはハンセン病にかかりました。ハンセン病は旧約時代に、神に呪われて臨む代表的な病気でした。
このことを通して、ふたりがモーセを非難した罪は、救いの問題になるほど神の御前で大きい罪であることがわかります。アロンとミリヤムの場合、直ちに悔い改めて、モーセがとりなしの祈りをささげたので赦されて、病気もいやされたのです。
愛する聖徒の皆さん、神の人ダビデの周りにも、彼に立ち向かって滅びに至った人々がいます。サウル王は神に立ち向かって、ダビデをはじめ神の人にはなはだしく立ち向かって、滅びの道に向かった代表的な人です。
王になる前のサウルは「自分のような人がどうして王になれるのか」と思うほど、へりくだった人でした。しかし、悪を積み続けた結果、後はサウルに油を注いで王に立てた預言者サムエルですらサウルを恐れるほど、高ぶった人に変わってしまいました。
神がダビデを次の王として油注がれたことを知っても、これを受け入れるどころか、かえってダビデを殺そうとしつこく追いかけました。はなはだしきは、ノブの祭司アヒメレクがダビデにパンと武器を与えたことを聞いて、その町の祭司85人を一気に殺して、町全体を滅ぼすひどいことをしました。
聖徒の皆さん、人が普段から善良に生きてきたのに、うっかり神の人にはなはだしく立ち向かったり、偶然に祭司の町全体を滅ぼす悪を行なえるものではありません。それまで心にどれほどたくさんの悪が積まれて、どれほど良心が鈍くなったなら、ここまで神に立ち向かったでしょうか。
結局、神に捨てられたサウルは本当に惨めな最後を迎えました。ベリシテ人との戦いで負けて自殺するようになり、その死体も首が切られてベテ • シャンの城壁にさらされる恥辱を受けました。
聖徒の皆さん、ダビデの子アブサロムも、ダビデに立ち向かって、惨めな結末を迎えました。アブサロムは反乱中に、まともに戦いもしないうちに頭が木に引っ掛かり、宙づりになって、その場でダビデの臣下ヨアフに殺されました。このように、子であっても例外ではありません。神は神に愛される人に立ち向かう罪を決して軽く思われません。必ずさばかれます。
シムイの事例を見てもこれがよくわかります。シムイはアブサロムを避けて逃げるダビデに陰口を言って、ののしりました。ダビデは彼を殺しませんでしたが、彼はダビデの息子ソロモンの時代に、王との契約を破って、結局殺されてしまいました。
ダビデの妻ミカルはどうだったでしょうか? 主の箱がダビデの町にはいった日、ダビデはあまりにもうれしくて主の前ではねたり踊ったりしていました。ミカルが窓から見おろし、「心の中で彼をさげすんだ」と[第二サムエル6:16]に書いてあります。ミカルはさらに進んで、この心をダビデの前で口にまで出しました。[20節]に「ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに 出て来て言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが 恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」とあります。
[23節]に「サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。」とあり、これによってミカルに臨んだ呪いが記されています。その当時は、女性が子どもを産めないと、神に呪われた者と言われてさげすまれ、軽んじられました。このように、神の人をさばいてさげすむ罪、言葉で冒涜する罪がどれほど大きい悪なのか、聖書は悟らせているのです。
愛する聖徒の皆さん、もちろん他のどんな罪も犯してはいけませんが、特に神の人をさばいて罪に定め、立ち向かう罪は決して犯してはいけません。さばいて罪に定めることは神の領域です。
ダビデがアブサロムの反乱から逃げるとき、シムイはダビデがサウルの家の血の報いとして災いにあったと、勝手にさばいて呪いました。ところが、はたしてそれが正しいでしょうか? まったく違いますね。これはダビデをどんな悪もなく傷のない、まことの神の子どもにするために許された訓練でした。このように、人の心は神だけが知っておられます。
初代教会当時の律法学者ガマリエルはこれを悟った人でした。使徒たちがしるしと不思議をたくさん現すと、多くの群れが主を信じました。これをねたんだユダヤの宗教指導者は使徒たちを牢に入れて、さらに殺そうとまでしました。すると、当時パリサイ人だったガマリエルは慎重を期そうと提案します。[使徒5:38-39]に「そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」とあります。
これがまさに神を恐れる人のすることです。もちろん、神のしもべ、働き人と言いながらも、確かに罪を犯して、神のみこころどおりに行なわない人がいるかもしれません。しかし、いくらみこころにふさわしくなくても、神の御名によって、私たちの主の御名によって油注いで立てた主のしもべや長老は、神が治められるようにゆだねなければなりません。人のほうから自分の思いどおりにしてはいけません。
ダビデは良い手本を見せました。彼はサウルを殺せる機会が二回もあったのに、殺しませんでした。サウルがたとえ神に捨てられてはいても、神に油注がれて立てられた王を自分の思いのままにすることを恐れたからです。ダビデはサウル王をさばいて罰するのは、神の権限に属することだと思いました。それで、サウルの上着のすそを切り取っただけで心を痛めました。ダビデはそれほど神の御前でどんな傷もないように願いました。
私は堂会長としての権限があっても、主のしもべや長老を自分の思いどおりに治めたことが開拓以来、たった一回もありませんでした。理解できない、とうてい受け入れられないことをしても、私の権限で務めや使命を取り上げたことがありません。神に油注がれた方々なので、ただ神様にゆだねて、何としてでもその人を生かそうと祈って、その道を神様に伺いました。私はみこころを伝えたり、その人を生かせる道を提示するだけでした。そうする時、神様がそれぞれの人に直接働かれました。
聖徒の皆さん、神の人がひょっとして真理に逆らうことをしているように見えても、勝手にさばいたり、陰口を言って、非難してはいけません。神と教会にゆだねなければなりません。
ところが、たまに教会と主のしもべを聖書の基準でなく、主観的な基準で異端だと罪に定める人がいます。徹底的に悔い改めて立ち返れば救われるでしょうが、一、二回でもなく、繰り返してこのようなことをすれば、悔い改められないほどになることもあります。つまり、コラとその仲間のように、悔い改めもできないで死に至ることがあります。
また、聖霊の力でしるしと不思議を現わす主のしもべや教会に立ち向かえば、聖霊を冒涜し、聖霊に逆らうことを言う罪、聖霊をけがす罪になることもあるので、慎まなければなりません。これは死に至る罪に当たるからです。
もちろん、真理を良く知らなくて、霊的なことを見分けられない世の人や初心の者には、神が悔い改めの機会を与えられるかもしれません。ところが、真理を聞いて知っていて、霊的なことも体験した人がこのような罪を犯すなら、死に至る罪になることもあります。これについては次回、もっと具体的に説明します。


[結論]

愛する聖徒の皆さん、神の人に立ち向かう罪の中には、実は「高ぶり」という大きい悪が隠れています。神の御前でへりくだった人は、神とかかわりのあるものは何でも尊重するものです。神の人も当然、愛して尊重するようになります。サウルが結局、死に至った大きい理由も、まさに「高ぶり」でした。高ぶりによって神のことばに聞き従わなかったし、神の人に立ち向かいました。高ぶりが結局、破滅に先立ったのです。
皆さんは神の御前で子どものように自分を低くして、天国の一番高く尊いところに至りますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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