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Title
信仰を測ると (22)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
エゼ 47:1-5
Date
2013-06-30
[本文]
[エゼキエル47:1-5]
「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。 」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、全世界と全国の1万余りの支教会と支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットで礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、GCN放送の視聴者の皆さん、教会学校の子どもの皆さん、「信仰を測ると」二十二回目です。
前回は、救われない罪の一つ、「神の神殿を汚す罪」について調べてみました。ここで「神の神殿」とは、目に見える聖殿を指してもいますが、同時に「御霊が宿っておられる神殿」である私たち自身を指しています。この神殿、すなわち、身と心を汚すことで御霊が離れてしまうと、神の子どもとされた地位が剥奪されるしかありません。
これを通して私たちは一つのことが悟れます。私たちの救いはすでに達成されたのではなくて、達成していくものであるという点です。[ピリピ2:12]に「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」とあるとおりです。
競走にたとえれば、救いは信仰の競走を走り抜いてこそ得られるのです。つまり、初めはとても早いスピードで走っていても、途中で止まったり、コースからそれれば、救いが達成できないかもしれないということです。きょう調べるみことばも、これについて確かに悟らせてくれます。
聖徒の皆さん、[第一テモテ6:12前半節]に「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」とあるように、永遠のいのちを完全に獲得してください。御霊に属する心にだけ変えられても、この永遠のいのちを確かに獲得できます。御霊に属する心は、心に罪と悪や移り変わることなど、肉の属性がない心です。ですから、途中で永遠のいのちの道からそれることがありません。この御霊に属する心にすみやかに変えられて、この地上でも、まるで天国で生きているように平安と喜びを味わいますように、主の御名によって祈ります。
[本論]
愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、救われない罪、十三番目は「初めの行いを失って取り戻せなかったこと」です。
[黙示録2:5]には、このみことばが記された当時、小アジアの七つの教会の一つだったエペソ教会を非難する内容があります。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」とあります。
ここで、「燭台をその置かれた所から取りはずす」というみことばには、聖霊を取り去られるという意味があります。したがって、これは、主を受け入れてから初めの愛の恵みを失って、移り変わって、もう一度世のやみを友とする人たちへの警告のみことばです。
エペソ教会は、初めは主の御名のために熱心に労苦しました。真理のみことばを聞くために集まって、祈ることを慕ったし、伝道に励みました。たとえどんな試練がやって来ても、喜びと感謝をもって勝利していきました。
ところが、時間が流れるにつれて、ある瞬間、この初めの愛が冷めてしまいました。真理の中に生きることに努めないで、世の中へ落ちていきました。ほめられたエペソ教会でしたが、初めの愛を捨てて、初めの行いから離れたら、恐ろしいお叱りのことばを聞くようになったのです。「もし悔い改めることをしないならば、あなたの燭台を取りはずしてしまおう」とは、すなわち、悔い改めなければ救われない、という厳しい警告のみことばでした。
初めの行いを失ったこと自体も悔い改めるべきことですが、さらに滅びて行く以前の生活を追い求めることは、徹底的に悔い改めなければなりません。これは死への近道だからです。悔い改めなければ、結局、御霊は消されてしまいます。
ところが、このように聖書にはっきり書いてあるのに、「一度聖霊を受けたなら、その後どう生きても救われます」と教えている教会があります。しかし、聖書では、心から御霊が消されることも、いのちの書に記された名前が消されることもあるということを教えています。
[第一テサロニケ5:19]に「御霊を消してはなりません。」とあります。また、[黙示録3:5]には「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」とあります。このみことばは、反対に、罪との戦いで負けるなら、いのちの書から名前が消されてしまうこともあるということを意味しています。
旧約聖書を読んでもこれがわかります。イスラエルの民が罪を犯したとき、モーセがどのようにとりなしの祈りをしたでしょうか? 彼らを赦してくださらないのなら、【主】のお書きになった書物、すなわち、いのちの書から、自分の名を消し去ってくださいと、いのちを引き換えにして赦しを求めました。
このように、一度救われた人も救いから遠ざかることがあるので、主は、悔い改めないで立ち返らなければ「燭台を取りはずしてしまおう」と厳しく戒められたのです。
聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、[黙示録3:16]には「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」とあります。これは、小アジアの七つの教会のうちラオデキヤ教会へのお叱りのことばでした。これは同時に、今日私たちに下さった教訓のみことばでもあります。
救われない罪、十四番目は、このように「なまぬるい信仰を持っていること」です。
聖霊を受けた人がいつの頃からか、形式的な信仰生活をしていることがあります。また、長い間教会に通っているのに、初心の者のような信仰生活をしていることがあります。心の割礼もしないし、忠実に仕えてもいません。それでも教会に行ったり来たりはしています。天国と地獄があることを、知識的とはいえ知っているからです。
しかし、聞いたみことばをほとんど聞き流してしまうから、5年、10年経っても、信仰に発展がありません。聖霊との交わりもないし、メッセージを聞いても霊的に悟れません。このような人が世でキリストの香りを放つはずもないでしょう。世の人と同じように、世の楽しみと友となって生きているからです。私たちの主はこういった人に向かって「口から吐き出そう」と警告しておられるのです。
主はまた、こう言われています。[黙示録3:19]に「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」とあります。ですから、ひょっとしてこのみことばで心が刺される人がいるなら、今すぐ主に従いますように。まことの悔い改めをして、熱心になってください。以前より熱くなり、真実な愛をささげることで主が大いに慰められ、喜ばれますように。
聖徒の皆さん、 着物を洗わなかったり、神の神殿、すなわち、自分の身と心を罪と悪で汚したり、初めの行いを失ってしまったり、なまぬるい信仰生活をしている場合、一番大きい問題は何でしょうか? 自分でも気づかないうちに御霊が消されてしまうということです。御霊が消された人は救われません。神の子どもだという「しるし」がないからです。
このように御霊を消さないために、皆さんが必ず心に留めるべきことがあります。それは、いつも目を覚ましていて祈り、聖霊に満たされ続けていなければならないということです。
イエス様はこれについて、たとえを挙げて悟らせてくださいました。[マタイの福音書25章]にある「十人の娘のたとえ」がその一つです。賢い五人は、油を十分用意していたので、花婿と一緒に婚礼の祝宴に行きました。一方、愚かな五人は油を十分用意できていませんでした。遅れて油を買いに行って、花婿を迎えることができませんでした。祝宴の家の戸がしめられていたので、入れませんでした。
ここで「ともしび」を「霊的ないのち」にたとえるとすれば、「油」は「聖霊」、または「祈り」と言えるでしょう。燃料が尽きれば、火は消えてしまいます。同じように、祈りが途切れて聖霊に満たされなくなれば、結局、霊的ないのちも消えてしまうのです。聖霊に満たされなくなり、祈ってもいないなら、みことばどおりに生きる力が与えられません。すると世に目を向けるようになります。なまぬるい信仰にとどまっていて、結局、御霊が完全に消されてしまうのです。
ですから、ともしび、すなわち、皆さんの霊的ないのちが消えないように、いつも目を覚ましていて祈り、聖霊に満たされ続けなければなりません。[マタイ25:13]に「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」とあります。このみことばのように、私たちの花婿、主がいつ私たちを迎えに来られるかわからないからです。主が来られたという声が聞こえれば、その時になって用意しようとしても、すでに手遅れなのです。
これまで、聖書のあちこちに記されている「救われない罪」の中で、代表的な十四の罪について調べてみました。もう一度心に刻めるように挙げてみましょう。偶像礼拝、安息日を犯す罪、十分の一献金をことごとくささげないことで神のものを盗む罪、神の人に立ち向かう罪、姦淫をはじめ様々な不品行、明白な肉の行い、義が律法学者やパリサイ人にまさるものでないこと、使命を果たさないこと、受けた恵みにそむいて自分の利益を求めて裏切ること、主のしもべを欺いて聖霊を欺く罪、着物を洗わないこと、神の神殿を汚す罪、初めの行いを失って取り戻せなかったこと、なまぬるい信仰を持っていることでした。
聖書には、こういったやみの中を歩んでいると救われないと書いてあります。これをよく覚えていてください。徹底的に自ら戒めるだけでなく、このようなやみの中にとどまるようにする心の罪の性質を完全に捨て去りますように。
ひょっとして、このような罪を犯した人がいるでしょうか? 徹底的に悔い改めて立ち返れば、神は赦してくださいます。[詩篇103:12]に「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあるように、完全に赦してくださいます。過去の罪を覚えてもおられません。
ところが、問題は悔い改めることもせず、また何がやみか、真理を知っていながらも、繰り返しこういうやみに向かっていくことです。この場合は、その罪が「救われない罪」を超えて、「死に至る罪」になるからです。「救われない罪」は、ひょっとして犯したとしても、徹底的に悔い改めて立ち返れば赦されることができます。もう一度救いに至るようになります。しかし、「死に至る罪」は悔い改めることすらできない恐ろしい罪です。
次の時間には、この死に至る罪について調べてみましょう。
[結論]
愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、最近のような時代にこのようなメッセージを伝えることは、決してやさしいことではありません。このような説教をすることで、私は憎しみと迫害の的になるかもしれません。しかも、この説教は放送で全世界に流されています。それでも、私はこのように罪と義とさばきについて、隠さずに教えて伝えることに努めています。[第二コリント1:6前半節]で、使徒パウロが「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。」と告白したように、全世界の聖徒が霊的に目覚めて、さばきのその日を喜んで迎えるようにするためです。
[マタイの福音書25章]を読むと、イエス様が後の日、まことの聖徒と偽りの聖徒をより分けてさばかれる場面があります。[32-33節]に「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」とあります。羊、すなわち、救われた子どもには、[34節]で「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」と言って、報いのさばきをなさいます。山羊、すなわち、偽りの聖徒には、[41節]で「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」と言われています。その次を続けて読んでみると、このように偽りの聖徒が救われない理由がひと言で要約できます。それは、「真理を行わなかったため」です。
ですから、皆さんすべては努めて真理を行い、山羊ではなくて羊の群れに入りますように。もちろん、真理を行うためには罪と戦わなければならないので、苦しみが伴います。しかし、この戦いを勇敢に戦うことは苦しいだけではありません。神の慰めが伴うのです。[第二コリント1:5]に「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」とあるとおりです。
ですから、この戦いで必ず勝利して、やがて主に賞賛と報いをいただきますように、主の御名によって祝福して祈ります。
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