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メッセージ
Title
   黙示録講解(75)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 17:14-18:3
Date
   2008-09-05


黙示録17:14-18:3

この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。

愛する聖徒の皆さん、七年患難の厳しい迫害と苦しみの中でも、最後まで信仰を守る人々がいます。彼らはほとんど殉教します。聖霊がすでに呼び戻された状態で、ひどい拷問に勝ち抜いて殉教するということは、決してやさしくはありません。しかし、主へのまことの信仰を持った人々は、結局、そのすべてに打ち勝つのです。
本文<14節>では、反キリスト勢力の迫害に立ち向かって最後まで勝ち抜く人々が、はたしてどんな人々なのかを説明しています。
「この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」とあります。
「主とともにいる者たちが打ち勝つ」と書かれています。そして「主とともにいる者たち」とは、「召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」とあります。このそれぞれの意味については、この前、説明しました。
まず「召された者」とは、簡単に言うと、救いに招かれた人のことです。ところで、この時、「救いに招かれた」という意味をよく知らなければなりません。
<マタイ22:14>に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とあります。このように、主はすべての人を招かれます。しかし、実際にその招きに従って主の中に入って来た人々は、そんなに多くありません。
このように、主の招きに従って主の中に入って来た人を「召された」と言うのです。「召された」というから、無条件に救われるように召されたという意味ではありません。自らが主の招きに従って、主の中に入って来た場合を言っているのです。
したがって、救いは予定ではなく、あくまでも本人の自由意志によって決められます。ただし、すべてをご存じの神様は、誰が主の招きに従って入って来るかもおわかりになります。また、誰がもっと完全に聞き従って、神様の尊い道具として用いられるのかも知っておられます。それで、彼らを遣わして、神の働きを進めて、神の国を広げていかれます。これを「予知予定」と言います。
予定論と予知予定論の最も大きな違いは、ひと言で「自由意志」だと言えるでしょう。予定論に従う人々は、神様がすでにすべてを定めておかれたので、救いも決められた、と言います。ですから、一度救われたなら、それが最後まで有効だという意味です。一方、予知予定論に従う人々は、自分の意志によって結果がいくらでも変わることを知っています。
もちろん、神様はそれぞれの人がどんな道を選んで、どんな結果になるのか、全部知っておられます。だからといって、これが、神様がそうなるようにすべてを決められた、という意味ではありません。結果は人の自由意志によっていくらでも変わるのですが、神様はその結果までもご存じの上で、すべてを計画して成し遂げられるという意味です。
したがって、予定論に従う人と予知予定論に従う人とは、信仰生活が全く違ってくるしかありません。すでに救いが決められているなら、誰がもっと熱心になろうとするでしょうか? はなはだしくは「罪を犯しても悔い改めればいい」という心で、もう一度世を求めていくこともあります。
仮に救いが本当に決められているなら、<ピリピ2:12>に「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」と書いたでしょうか? 救いを達成するその瞬間までは、決して安心したり油断してはいけません。
七年患難の時も、それでも落ち穂拾いで救われた人々は、このように最後まで主の招きに従ってその信仰を守る人々です。こういう人々が「召された者」、すなわち、救いに招かれた者であり、患難に打ち勝って救われる者なのです。
次に「選ばれた者」とは、神様のみこころにあって特別に用いられるために選ばれた人々を指します。たとえば、国の代表チームを結成するなら、各チームから優れた人々を選んで結成するのではありませんか? このように、神の国のためにも、神様は必要な人々を特別に選んで、彼らを用いて、神様の働きを成し遂げられます。
七年患難中にも、このように選ばれた者たちがいます。聖霊が呼び戻されたこの地上で、最後まで福音宣教の使命を果して、将来大きい栄光を得る人々です。十四万四千人の伝道者たちが、まさにこのような場合です。彼らは単に落ち穂拾いで救われるのではなく、もっと大きい栄光の座につくと言いました。
最後に「忠実な者」とは、心に悪賢さがなく、偽りがなく、悪や不義が全くない人です。心が正しくて心の畑が良いために、すみやかに霊に、全き霊に耕して、いのちを尽くして主のために忠実になる人々です。このような人々は、一度「真理」を悟ると、どんな困難や苦しみがやって来ても、決して裏切ったり、妥協したりしません。
父なる神様は、今日もまさにこのような人々を探しておられるのです。本当に真心と全き信仰を持った人で、父なる神様のほうからも100%信じて任せられる人なのです。このような人々は、自分に与えられた使命、それ以上をやり遂げます。ですから、神様のほうからご覧になると、どれほど心強いでしょうか?
皆さんもこのように、主とともにいる者として召され、さらには選ばれ、ついには忠実な者だと必ず認められますよう、主の御名で祈ります。
次は、<15節>に「御使いはまた私に言った。『あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。』」とあります。淫婦がすわっている所は「もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」とありますが、これはまさに、この世を意味します。
ルシファーとルシファーに操られる反キリストの勢力は、この世のすべてを支配して、その上に君臨して、統制して、命令します。もちろん彼らは闇の中に生きて、闇と友になって同調する人々を道具に使って、この世を支配していきます。このような世に生きていく人々には、喜びも感謝も笑いも・・・・・・どんな幸せも探す余裕がありません。
ですから、七年患難の間は、殺伐として、こせこせして世知辛くなったところから来る精神的な苦しみも、あまりにも大きいのです。「きょう一日をまた、どう生きようか、どうやって生き残ろうか?」このような重圧感と恐怖をかかえて、一日一日をつらく耐えなければならないのです。
続く<16節>に「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。」とあります。このみことばは、肉的に考えると理解できません。淫婦のルシファーに操られた十本の角と獣が、今は「その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、」とあります。はなはだしきは「裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。」とあります。
それなら、どうしてこのようなことが起きるでしょうか? また、このみことばの意味は何でしょうか? このみことばに含まれたまことの意味は、七年患難の終わりの時になると、反キリストの勢力が互いに戦って、ついに自ら崩れるという意味です。
前に語ったように、七年患難の終わりになると、反キリスト勢力の中で内紛が起きます。それまで積まれていた不満が爆発して、互いの間でも悪に悪を行なうようになります。これまで協力してきたすべてが無駄になり、互いに自分の生きる道を探すために、相手を踏みにじって害を加えるのです。「いつ私たちが互いに協力したのか」というように、今は互いに歯ぎしりして戦うようになります。
これが、まさに肉の属性です。すぐ目の前の利益のためには手を握るけれど、結局、自分の利益に合わなくなると、いつでも裏切って仇になることもあります。肉の愛もそうではありませんか? 互いにあなたでなければならないように言ったのに、時が流れるにつれて、だんだん意見が合わなくなると、結局、裏切って、まるで使い古した靴のように捨てて、背を向けるのです。あれほどいとおしそうに見つめていた目が、憎しみと呪いの眼差しに変わったり、あれほどやさしかった相手の声が、一番聞きたくない声になります。
ですから、以前に「愛している」と言ったことが、どれほど情欲的であり、自己中心的な欲にすぎなかったか、証明してくれます。それでも、このような肉の愛にだまされて、罪を犯して神様から離れる人々がいるので、本当にもどかしいことです。
七年患難の反キリスト勢力も、一つに集まって力を発揮するようでしたが、結局その悪によって自ら崩れるようになります。
<マタイ12:25-26>に「イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。『どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。』」とあります。
ところで、七年患難の終わりには、このようにサタンに支配されていた勢力の間でも、互いに利益のために裏切って、相手を攻撃することが起こるのです。もちろん、神様が悪い霊どもに闇の権勢を振るうよう許された間には、そのようなことが起こりません。ですが、彼らに与えられた時間が終わると、結局、彼らの根の悪の属性に従って行なうので、このような結果が出るのです。
皆さんは、何をしようが、決して肉に従ってされませんように。肉は時間が過ぎれば必ず変わるものであり、その結果は惨めになるしかありません。すべてを霊で、善で、信仰で神様の前に積み上げていく皆さんになりますよう、主の御名でお願いします。
<17-18節>に「それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」とあります。
聖徒の皆さん、七年患難に登場する反キリストの勢力は、ルシファーに支配されます。ところで、このような反キリストの勢力が、神様のほうから「あなたたちがその役割をしなさい」と決められて、そうなるのではありません。
神様は聖書を通して、反キリストの勢力について悟らせて、戒めておられます。したがって、主を信じて聖書を信じる人なら、どうして自分が反キリストの勢力になることを想像さえできるでしょうか?
それでも、七年患難の時になれば、「主を信じて、聖書を知っている」と言っていた多くの人も、反キリストの勢力に同調します。さらに反キリスト勢力のかしらの中には、自分なりに「神様を信じて、主も信じている」と言っていた人が多いのです。それでも、このようにルシファーに従って、彼の手下になってしまうのです。
これは、自分の悪の属性に従って、自らがその道を選んだからです。誰かが彼らに必ずそうするように、初めから決めたのではありません。自分の悪に従って、自ら選んだことです。これを「神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、」と言ったのです。
一つの目的を持って連合政府が構成されるのも、そして、彼らが主を信じる人々を迫害して、神様に立ち向かうようになるのも、自分の意思で彼ら自らが選んで行なったことです。中には神様を誤解して「神様がわざわざ、ある人の心は頑なにして、悪い道具として用いられる」という人もいますが、これは決して正しくありません。
たとえば、<出エジプト9:12>に「しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。」とあります。このみことばを文字どおりに解釈すると、まるで神様がわざわざパロの心を頑なにして、モーセの言葉を聞かないようにされたかのように誤解するかもしれません。それで、結局、十の災いで滅ぼされた、と思うのです。
しかし、このみことばは、神様がわざわざパロの心を頑なにされた、という意味ではありません。パロが持っている頑なな悪の属性が、自由意志によって現れるように放っておかれたという意味です。
パロは、神様が見せられるその途方もない不思議としるしを見ても、神様の預言者の言葉を信じなかったのです。それが一度二度繰り返されながら、パロは自ら自分の心をもっと頑なにしていったのです。むしろ神様は十の災いを見せて、パロに悪から立ち返る機会を下さいました。しかし、パロは、自分の悪のため、善の道が選べなかったのです。その心が悪いから、善を選ぼうとしながらも、結局はまた悪を選んでしまったのです。
このように心が悪い人は、いくら善を選ぼうとしてもできません。「これから良い言葉を言って、正しく行おう」と決心しますが、すぐ心の悪が出て来ます。
それで、心の割礼をするように言っているのです。心の割礼をして心から悪を捨ててこそ、初めて良い言葉と行ないが出て来るのです。信仰生活をいくら長くして、いくら大きなみわざとしるしをたくさん見ても、心の割礼をしなければ何の役にも立ちません。相変わらず心にある悪が出て来て、神のみことばに不従順になるのです。
「それなら、神様が正しい道を選ぶように、心をつかさどってくださるならよいのでは?」と思うかもしれませんが、これは公義に合いません。そうするなら、正しくない人はいないし、救われない人はいないのです。
それならば、人間耕作が必要でもないし、あえて悪い霊どもを造られる必要もなかったでしょう。初めから神のまことの子どもとして人間を創造されればよいことですから。ですが、これは公義に合わないだけでなく、耕作なしではまことの子どもになれません。相対性を体験する耕作の過程があってこそ、本当に「真理」がわかる神の子どもになれるのです。
それで、神様は公義に従ってこの地上で人間を耕作されるのです。一方的な神様の意志によってではなく、各人に自由意志を与えて任せられました。そして、自由意志によって善を選んで、神様のみこころを追い求めようとする人には、上から恵みと力を下さって、聖霊に助けられるように導かれます。一方、自由意志によって自ら悪を選んで、神のみことばに不従順になっていく人は、むしろ敵である悪魔・サタンが「よくやった、もっとやれ」とけしかけて、闇に引いて行くのです。
七年患難の時も、この地上に残った人々の中で、結局、自分の心の悪を追ってルシファーに操られる人々が、反キリストの勢力として登場するのです。そして、神様は、敵である悪魔・サタンに許された期限になるまでは、彼らを放っておかれます。この地上に自分たちの国を建てて、闇の権勢を振るっていくようにされます。そして、定められた期限になり、ついに千年王国が渡来する時になれば、神様は彼らを滅ぼされて、この地上に新しい神の国を建てられます。
これを指して「神が、みことばの成就するときまで」は、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせた、と語っているのです。
次に「あの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」とあり、女、すなわち、ルシファーの正体について語っています。「地上の王たち」とは、この地上で権勢を握っている者たち、言いかえれば、神に立ち向かって悪の権勢を握っている者たちを指します。また、欲に従って富と名誉と権勢を追い求めた者、そして、反キリストと手を握ってこの地上で王のように君臨した者たちを指します。
ルシファーがこういうすべて悪い権勢の首領になるのです。ルシファーが彼らの後から操り、もっと悪を行なうようにしていくのです。それで、女であり、淫婦であるルシファーを指して、「地上の王たちを支配する大きな都のことです。」と表現しているのです。

聖徒の皆さん、これから<黙示録18章>に入ります。
<1節>に「この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。」とあります。
「この後」とは、七年患難の終わりに起きる戦争と、それによる連合政府の崩れる兆しなど・・・・・・一連の出来事があった後のことです。この時、天から御使いが下って来ますが、「大きな権威を帯びて、彼の栄光のため、地は明るくなった」とあります。
闇で満ちていたこの地を明るくするほど、今下って来る御使いは大きな権威を帯びています。連合政府、すなわち、反キリストの勢力を滅ぼして、七年患難を終わらせる権威を帯びた御使いです。このように重要な使命を全うさせるために、神様はそれほど高い序列の御使いをこの地上に遣わされるのです。この御使いは、この地上に下って来て、神様の公義を明らかに現します。
事実、七年患難の間、この地上に生きていた人々の目には、反キリストの力と権勢が続きそうに見えました。しかし、神様の定められた時になると、このように神様の力と栄光で闇の勢力を退けるようになります。
<2-3節>に「彼は力強い声で叫んで言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。』」とあります。
大バビロン、すなわち、反キリスト勢力の滅びを宣言します。彼らに同調した国々も崩れます。七年患難が締めくくられる時点で、そのしわざに応じて報いられる、神様の厳かな公義のさばきがどのように臨むのか、次の時間に調べましょう。

結論

愛する聖徒の皆さん、神様は七年患難が終わりに向かっていくところで、、このようにルシファーの正体について、明らかに語っておられます。実際、ルシファーとその輩は、これから滅びの道に向かうようになります。それでも、あえて彼らの正体について詳しく説明しておかれました。
これは、まさに将来、千年王国の終わりに起こる、一つの出来事に備えさせようとされるのです。千年王国の終わりが近づけば、神様は千年間、底知れぬ所に閉じ込めておいたルシファーと悪い霊どもを、もう一度解き放されます。そして、彼らは千年間、霊の人々が熱心に福音を教えた、この地上の数多くの肉の人々を惑わしていきます。霊の人々があれほど教えに教えたにもかかわらず、結局、数多くの人々が惑わされてしまいます。
まさに彼らのために、神様はこのように七年患難が締めくくられるところで、ルシファーとその輩の正体について、もう一度明らかに教えてくださるのです。世の闇を支配していった彼らの正体を明らかに悟って、惑わされないようにしようとされるのです。
ヨハネの黙示録を書かせられた目的も同じです。必ず起こる主の再臨と七年患難を、生きて迎える人々がいます。その日に、皆が七年患難でなくて、七年婚宴に入ることを望まれるので、神様はヨハネの黙示録で繰り返して戒めておられるのです。
もちろん、主の再臨の前に魂が眠っていて、主を迎える人にとっても同じです。また、万が一にも七年患難に落ちた人がいるならば、その時でもこの戒めのことばを握って、打ち勝ってほしいと願われるのです。このような主の心を必ず悟られますように。
<黙示録22:6-7>に「御使いはまた私に、『これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。』と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。『見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。』」とあります。
たくさんのみことばを聞いて知っていることだけでは、皆さんが幸いだと言えません。必ずみことばを守り行なう時に、それが皆さんにとってまことの幸いになるのです。この事実を必ずもう一度心に刻まれますように。それで、みことばを守る者に下さる父なる神様の驚くべき祝福を、皆さんの人生で必ず体験していかれますよう、主の御名で祝福して祈ります。

 
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