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メッセージ メッセージ > メッセージ
メッセージ
Title
   完全な十分の一献金と奉納物(3)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   マラ 3:7-10
Date
   2008-12-28


マラキ書3:7-10
「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。――万軍の主は仰せられる。――しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

序論

愛する聖徒の皆さん、「完全な十分の一献金と奉納物」、三番目の時間です。
この前は、なぜ十分の一をささげてこそ祝福されるのか、霊的な原理について語りました。主イエス・キリストを受け入れて、戒めを守っていく時でこそ、神の子どもとされ、祝福される、と説明しました。
[マラキ3:11]で、神様は「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――」と約束されました。
この約束のとおり、主日を守って完全な十分の一献金をささげると、病気、事故など、さまざまな災いから守られます。これにもう一つ、死に至る罪を犯さないなら、守られるのです。神様は私たちの職場、事業の場を守って、祝福してくださいます。
ところが、十分の一をささげますが、本文[10節]で「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。」と言われたように、必ず「ことごとく」、すなわち、完全な十分の一献金をしなければなりません。
きょうからは、完全な十分の一をささげる具体的な方法について語ります。方法をよく知らなくて、完全な十分の一をささげないことがないように、メッセージをよく糧とされますように。万軍の主である神様が注いでくださる祝福を、思いきり受けて味わう皆さんになられますよう、主の御名で祈ります。

本論

愛する聖徒の皆さん、子どもが成長して自分の収入ができると、親に感謝の表現をします。これは、子どもとして当然しなければならないことです。神様は私たちの霊の父であり、肉の父でもあります。したがって、私たちが収入から神様に十分の一献金をささげることは、当然のことなのです。
ダビデの時代に、民が神の宮のために多くのささげ物を持って来ます。この時、ダビデは感動してこのように言いました。[第一歴代誌29:14]に「まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」とあります。
このように、すべてが神様から出たのであり、私たちが神様に頂いたものの一部をささげることが、十分の一献金です。それにもかかわらず神様は、子どもたちが十分の一をささげると、祝福してくださいます。どれほど感謝でしょうか?
ところが、ある人は、祝福されるために十分の一をささげることは全き信仰ではない、と言ったりします。祝福を求める信仰、すなわち、祝福されることが信仰の目的になってはいけない、と言うこともあります。はたしてそうでしょうか?
神様は、聖書のあちこちで本当に多くの祝福の約束をなさいました。神様を信じて、みことばどおり行なうとき、霊肉ともにあふれる祝福を与えよう、と言われます。はいるときも祝福され、貸すであろうが、借りることはない祝福、かしらとならせる祝福を与える、と約束されました。
神様は、アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、ダニエルと三人の友だちなど、数多くの昔の信仰の人々を、このような祝福のモデルとして示されます。魂に幸いを得ているほど、すべての点に幸いを得ることを証しされています。彼らによって神様が栄光を受けられて、神の国がもっと大きくなりました。
このように、私たちはただ祝福されることだけを求めて信仰生活をするのではありませんが、祝福は神様を信じる時に結ばれる実です。もちろん富、名誉、権勢などをむさぼって、こういうものに執着してはいけません。主の子どもたちは、良い管理者にならなければなりません。自分に与えられた富、名誉、権勢も、ただ神様のみこころに従って使える人が、まさに主のさまざまな恵みの良い管理者なのです。
このような良い管理者が多くなるほど、神の国がどれほど見事に実現されるでしょうか? 神様はこのような人々を喜ばれるので、物質、名誉、権勢など、もっと多くを任せられます。
私が大いに祝福されている秘訣は、まさにこれです。私に下さったものでも、自分のものと思わず、ただ神様のみこころに従って使ってきたので、神様は日が経つにつれ、さらに祝福してくださったのです。完全な十分の一献金と奉納物の説教は、実際、私の証しでもあります。私は、皆さんの牧者として体験したことを、大胆に証ししながらメッセージが伝えられるので、どれほど感謝でしょうか?
十分の一献金をささげる方法は、ある面から考えれば、本当に簡単です。収入から十分の一を取ってささげればよいのです。もう少し余裕をもってささげるなら、もっと簡単です。詳しい項目まで複雑な計算をしなくてもよいし、「足りなくないだろうか?」と心配しなくてもよいのです。
けれども、それぞれの信仰が違って、状況がいろいろなので、皆が余裕をもってささげているのではありません。ただし、完全な十分の一献金についてよく理解できなくて、足りなくささげることはないように、詳しく説明するのです。ですから、恵みと思ってメッセージを聞かれますように。

愛する聖徒の皆さん、完全な十分の一献金をささげるためには、まず、総収入から十分の一を取らなければなりません。ある方は、初めから収入そのものを少なく計算して、完全な十分の一をささげないこともあります。
たとえば、1か月の月給が100万ウォンの人がいます。その給料から税金、年金、保険料などが引かれて、実際は80万ウォンをもらいます。それで、この人が80万ウォンを収入として計算して、十分の一献金8万ウォンをささげました。これで正しいでしょうか? 総給料、すなわち100万ウォンを収入として計算してささげてこそ、完全な十分の一をささげたと言えるでしょう。引かれた各種の税金は、収入から払う「支出」に当たります。収入があるから、税金を払うこともできるし、税金を払うことによって、その後はそれによる恵みを受けるのです。
また、「総収入」とは、現金収入だけでなく、さまざまな現物収入も含みます。すなわち、食事をもてなされたり、プレゼントをもらったりした場合も、これに対する十分の一をしてこそ、完全な十分の一献金をささげたことになります。
たとえば、果物一箱をプレゼントされたなら、その値段を計算して、十分の一献金をささげればよいのです。ところが、すべての物の値段を正確に計算することは難しいです。最も良い方法は、収入から十分の一献金をするとき、余裕をもってささげることです。
総収入には、定期的でない収入も含まれます。月給で生活する人を例に挙げるなら、毎月の給料のほかに副収入がある場合が、これに当たります。ある方は、現金収入だけ、また、給与など定期的な収入だけで、十分の一をささげればよいと思っています。しかし、定期的でない収入、現金収入のほかにも、現物収入など、自分に与えられたすべてに対して、つまり、総収入から十分の一をささげてこそ、完全なのです。

二番目に、十分の一献金は、他の献金と区別してささげなければなりません。
ある方は、収入から神様にささげる献金の金額を差し引いて、残りの金額から十分の一献金をささげるそうです。すなわち、感謝、建築、施し、宣教献金など各種の献金、はなはだしきは宣教会の会費まで差し引いた金額から、十分の一献金を計算してささげるのです。あるいは、収入から十分の一を取っておきますが、それを各種の他の献金に分けてささげたりします。
または、十分の一をささげて、「この中の一部は施しに使ってください」と言う場合もあるそうです。神様にささげることは同じなので、どんな名目でささげてもかまわないのでは、ということです。
そうではありません。十分の一献金は、必ず「十分の一」という名目で、他の献金と区別してささげなければなりません。十分の一は神様のものだからです。いくら神様にささげたとしても、十分の一献金としてささげるべきものを、ほかの献金としてささげるなら、自分が神様のものを好きなとおりにしたことになります。
また、十分の一としてささげられたものは、教会で神様のみこころに従って使います。すでに神様にささげた十分の一に対して名目を指定することは、正しくありません。他の各種献金は、十分の一を除いた金額から信仰の量りに応じて心を込めてささげるものです。
ところで、十分の一は当然ささげなければならないし、救いにも関わりますが、必ずしも報いになるのではありません。しかし、各種の献金は天国の報いとして積まれます。特に建築献金は、天国の家を建てる材料になります。
ところが、もし建築献金もたくさんささげて、感謝献金もたくさんささげたのに、完全な十分の一献金をしなかったとします。これは、神様のものを盗んだことになるので、祝福が受けられないのです。これからは、このような真理をはっきりと悟られますように。

三番目に、十分の一献金は、自分が霊の糧を供給されている教会にささげなければなりません。
出席している教会と霊の糧を供給されている教会が同じ場合もあるけれど、違う場合もあります。十分の一献金は、ただ出席している教会にするのではなく、自分を霊的に成長させる所にささげなければなりません。霊的な登録教会、すなわち、自分の心がある所、霊的なみことばの糧を供給して、信仰を植えつけていのちを与える所、そこが自分が霊的に属している教会です。
たとえば、死に至る病気にかかったある人が、ソウル大学病院で治療を受けて、劇的に生き返ったなら、その治療費をどこに払うでしょうか? 自分の町に、規模も小さくて、施設も良くない病院があります。近くでもあるし、かわいそうにも見えるから、この近くの病院に代わりに払うなら、正しいでしょうか? それは違います。自分が治療を受けた病院、命を得た病院に払わなければなりません。
また、学生が登録金を払うなら、自分が勉強する学校に払うべきであり、ほかの学校に払うのではありません。
十分の一献金をささげる原理も同じです。もちろん、感謝や建築など、その他の献金は、自分が働きかけられたとおりにすることもできます。たとえば、ほかの教会のリバイバル聖会や集会に参加して恵みを受けたなら、感謝など、各種の献金をその教会にささげることはできます。しかし、十分の一献金は、自分の霊と魂が属している教会にささげなければならないことを、よく理解されますように。

四番目に、十分の一献金は、ひとりひとりの名前でささげなければなりません。十分の一献金は、家族の名前で、あるいは夫婦の名前で、合わせてささげるものではありません。
たとえば、妻が家事を引き受けて、夫だけ働く家庭があるとします。このような場合、妻には特別な収入がないと考えて、夫婦の名前で合わせてささげたりします。しかし、十分の一献金は、ひとりひとりの名前で、それぞれの収入からささげるものです。夫の収入ならば夫の名前で、妻の収入ならば妻の名前でささげるべきです。
天国では、夫婦や家族だからといって、一つの家に住むのではありません。各人に土地と家が与えられて、おのおのの行ないに応じて報いも違います。ですから、この地上でささげるものも、必ずそれぞれの名前でしなければなりません。
もちろん、この地上で霊的な夫婦、霊的な家族だったら、天国でも離れません。一緒に祈りも、忠実も、十分の一献金も熱心にするはずなので、同じ天国に、それも互いに近くの家に入れます。しかし、肉的な夫婦や家族は、天国に行けば、何の関係もないのです。
時々、信じない夫の十分の一献金を、妻が代わりにささげる場合があります。もちろん、妻が信仰をもって行なうなら、このような誠意によって、夫に救われる機会をより多く与えてくださることはできます。しかし、まずは夫が主を受け入れて、信仰を持つようにすることが先です。夫の名前で十分の一献金をしても、信仰がないので、夫が祝福されたりはしません。
子どもも同じです。子どもが神様を愛して、自分で十分の一献金もして、信仰生活を正しくするように教えなければなりません。
ところで、十分の一をそれぞれの名前でささげることが原則ですが、例外もあります。夫婦共通の収入が入って来る場合があります。
たとえば、親が息子夫婦に財産を譲りましたが、息子夫婦ふたりの共同名義でしました。それなら、これはふたり共通の収入になります。また、夫婦が共同で事業をする場合もあります。このような場合、その収入は夫婦共通のものですので、ふたりの十分の一献金をささげても大丈夫です。または、収入を同じように半分に分けたり、ふたりで話し合って、特定の割合で分けて、それぞれの名前で十分の一献金をする方法もあります。
次の時間も、完全な十分の一献金をささげる方法について説明していきます。

結論

愛する聖徒皆さん、きょうは、完全な十分の一をささげる具体的な方法を説明しました。ひょっとして「ややこしい。難しい」と感じる方がおられるでしょうか? 先に申し上げたように、神様を愛する心でささげるなら、決して難しくはありません。
アメリカのある教会学校での話です。献金の時間に、子どもがみな献金をしているのに、ある子どもだけは、ほとんど毎週、献金をしないで、目を閉じて座っていました。これを不思議に思った担任の先生が、この子を呼んでその理由を聞きました。聞いてみたら、この子は家があまりにも貧しくて、献金の時間に、献金をささげる代わりに目を閉じて、祈りをささげていたのです。何の祈りをしていたのか、と聞いたら、「神様に私の身と命と一生をささげます、と祈ります」と答えました。
感動した先生は、その子にいくらかのお金をあげて、それを小銭に代えて、毎週1ドルを献金するように、と言いました。その子はそのまま従って、献金をささげました。
ところが、何週間はきちんと献金をしていた子どもが、いつかから、それ以上献金をしなくなりました。先生がまたその子を呼んで理由を聞いたら、その子は、このように答えました。「先生に言われたとおり小銭に代えて、ポケットに入れておいて献金をしましたが、買って食べたいものがあんまりにも多かったんです。買い食いをすれば罪を犯しそうなので、先週の主日に残りを全部ささげました。これからはまた、祈りだけをささげることにしました。」
この子が、まさに1884年、福音を持って韓国の地に上陸したアンダーウッド宣教師でした。神様はその真実の愛を受けられて、祈ったとおり、彼の人生は荒れ地のようなこの国に教会を建てる基礎になったのです。
私たちの神様はまさにこのような心を受けられます。神様を愛するから、自分の最も大切なものを惜しまずにささげられる、心の香りを受けられるのです。このような心があるならば、ささげるものがない現実も何の関係もありません。
[第二コリント9:10]に「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」とあります。神様は、その心をご覧になるだけでも、蒔くものを下さり、私たちが蒔いたとおり、必ず豊かな実を結ばせてくださるのです。
ですから、すべてにおいて神様にささげることが喜びであり、ささげるもの、使うものを与えてくださる神様に感謝する皆さんになられますように。
このように感謝して神様を愛する者に、神様は最上のもの、すなわち、天国を下さいます。この地上では、多くのもの、良いものを受けないかもしれません。しかし、神様は天国を下さることで、言葉で表現できない良いもの、美しいものを受けるようにされます。
したがって、信仰と希望をもって、愛を込めた宝を、虫とさび、盜人もない天の倉に積まれますように。それで、まことに豊かな心を耕して、毎日毎日、平安と喜びが満ちあふれる人生になりますよう、主の御名で祝福して祈ります。

 
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