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メッセージ >
聖書の学び
Title
第6課 「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2009-02-06
読むみことば: マタイ3:5-10
覚えるみことば: マタイ3:10
参考にするみことば: ガラテヤ5:22-23
教育目標
バプテスマのヨハネがパリサイ人とサドカイ人を非難した理由を知って、自分の罪と悪を発見し、悔い改めにふさわしい実を結ぶ。
バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と叫んで、罪を告白する人は誰でも水でバプテスマを授けて、イエス様を救い主として受け入れるようにしました。しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」と言って厳しく非難します。
1. まむしのすえたち
パリサイ人とサドカイ人は当時、ユダヤ教を代表する人々でした。そのうちパリサイ人は、聖別された者と自認していました。彼らは後の世について、義人の復活と悪者のさばきを信じ、モーセの律法と昔の人たちの言い伝えを徹底的に守った人々であって、かなりの社会的な地位を持っていました。パリサイ人が専門家を中心とした中流階級ならば、サドカイ人は裕福な貴族と祭司などの上流階級です。サドカイ人は、パリサイ人とは違って世俗勢力と適当に妥協したし、ギリシア文化を受け入れて支持しました。彼らは記された律法だけを経典と認め、復活、霊魂の永遠性、天使、霊的な存在に対する信仰は拒否し、神の国も現世的に見ました。
それでは、バプテスマのヨハネが「神を信じている」と言う彼らを「まむしのすえたち」と表現した理由は何でしょうか? <マタイ16:1-4>に「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。…『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」とあります。彼らは神の御子であられるイエス様がわからなくて試み、むしろ神の働きに立ち向かいました。イエス様が悪霊につかれた口のきけない人をいやされると、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言い(マタイ9:34)、安息日に片手のなえた人をいやされたイエス様を、どのようにして滅ぼそうかと相談しました(マタイ12:14)。
このようにパリサイ人とサドカイ人はイエス様をねたんで、悪魔のしわざだとさばいて罪に定め、滅ぼそうとしました。ですから、どうして神のさばきからのがれられるでしょうか。もしかして皆さんは、信仰がなかったとき、神の力で口のきけない人がものを言い、悪霊が出て行くなどのみわざが起きたと聞いて、罪に定めなかったでしょうか? 聖書にあるとおりの不思議としるしを現して、病気の人をいやす教会を「異端だ、間違っている」と言わなかったでしょうか?
パリサイ人とサドカイ人は「神を信じている」と言いながらも、悪意に満ちて、そねみ、ねたみ、憎しみ、高ぶり、さばき、罪に定めるなど、肉的なことと肉の行ないをしました。形式的に律法を守ることと、世俗的な名誉だけを追い求めたのです。彼らは「古い蛇」(黙示録12:9)、すなわち、サタンに操られたので、バプテスマのヨハネはこれを「まむしのすえたち」と表現したのです。
2. 悔い改めにふさわしい実を結びなさい
神の子どもならば、光の中にとどまらなければなりません。もしも光と反対の闇の中にいたら、神の国が相続できません。それで、バプテスマのヨハネはパリサイ人とサドカイ人に「悔い改めにふさわしい実を結び、 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と非難したのです。アブラハムの子孫ならば、神を愛してみことばに聞き従い、すべてにおいて善と愛をもって行なうでしょう。ところが、「神を信じている」と言いながら、相変わらず肉的なことと肉の行ないに満ちているのですから、どうして彼らがアブラハムの子孫と言えるでしょうか。
パリサイ人やサドカイ人のように、神のみこころを追い求めないで、相変わらず敵である悪魔の意図するところを追い求めて生きていくなら、いっそ石ころからアブラハムの子孫を作ったほうがよいのです。神が人を創造して人間耕作をされる理由は、永遠に愛を分かち合うまことの子どもを得るためです。
それで、バプテスマのヨハネは「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」と言って警告します。「斧も木の根元に置かれている」とは、イエス様がこの地上に来られたので、真理である神のことばに従って、行なったとおりさばかれる、ということです。「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる」とは、悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、地獄の火に投げ込まれる、ということです。
<黙示録21:8>に「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」とあります。第一の死が肉の命が終わって死ぬことならば、第二の死は、人の霊と魂がさばかれて地獄に投げ込まれることです。
地獄は火と硫黄のところです。神を信じない人や、信じると言っても不正を行なって、悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、神と関わりがないので地獄の火の池に入ります。この時、人としてはできないようなひどい悪を行なったり、神にはなはだ立ち向かって、にせ預言者のように多くの人を地獄に導いた人々は、火の池より七倍も熱い硫黄の池に投げ込まれます(黙示録19:20)。それで、バプテスマのヨハネは悔い改めを促すと同時に、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と強調したのです。
3. 悔い改めにふさわしい実とは何か?
すべての人は、アダムが神に不従順の罪を犯したので、世の闇を支配している敵である悪魔の子どもとして生まれます。しかし、イエス・キリストを信じると罪が赦されて、神の子どもとして新しく生まれます。ところが、「神様を信じている」と言いながらも、相変わらず肉的なことと肉の行ないをしていれば、まことの信仰がないという証拠です。ですから、救われるには悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。
光と愛そのものであられる神の子どもになったので、光の実、愛の実、御霊の実など、善良で美しい真理の実を結ばなければならないのです。そのうち、代表として<ガラテヤ5:22-23>にある御霊の九つの実を調べてみます。
第一の実は「愛」の実です。<第一コリント13章>に出てくるように、寛容であり、親切であり、ねたんだり自慢せず、高慢になったり、礼儀に反することをしないなどの霊の愛です。一歩進んで、神の国と義のためにいのちまで与えられる犠牲的な愛を意味します。このような愛は、罪と悪と不法を捨てて聖められた分、得られます。
第二の実は「喜び」です。良いことだけでなく、どんな環境と条件でも、いつも喜んで楽しむことです。天国の望みをもっていつも喜ぶ人は、心配して悲しまないで、どんな問題が起こっても信仰で求めるので、そのとおり答えられます。
第三の実である「平安」は、誰とも引っかかることのない心です。心の中に憎しみや争い、利己的な欲がないので、相手のために犠牲になって仕え、礼儀に反することをしないので、平安でいられます。
第四の実は「寛容」です。理解して、赦して、真理にあって寛容であることです。腹が立って、心の中は煮えくり返っていても、無理に抑えて我慢するのではなく、悪を捨てて善と真理で満たすのです。どんな人でも理解していだき、何のわだかまりもないので、「赦す」とか「我慢する」という言葉そのものが必要ありません。人との関係だけでなく、心の悪を捨てるために長く耐えて、神の御前にささげた祈りと求めが答えられるまで寛容であることも言います。
第五の実である「親切」は、とうてい理解できないことを理解し、赦せないことを赦す霊的な「親切」です。自己中心的な思いと、自分が正しいという心があるならば、「親切」の実を結ぶことができません。自分を捨ててすべてを広く受け入れ、愛で相手を顧みる時にはじめて、理解して赦せるのです。
第六の実は「善意」で、主の心に似て争うこともなく、叫ぶこともせず、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない心です。すべての罪を脱ぎ捨てて、御霊によって美しい善を求める真理の心です。
第七の実は「誠実」です。自分の中にある罪と血を流すまで戦って捨て、真理の心を耕すために、死に至るまで忠実であることです。また、教会や家庭、職場などで、自分に与えられた使命を果たすために、全家を通じて忠実な者になることです。
第八の実は「柔和」で、すべての人を包める、綿毛のようにやわらかい心のことを言います。柔和になれば、誰が刺しても痛いと感じたり、傷ついたりしません。綿に石を投げれば、音を立てないで包み込むように、多くの人が休める木陰になります。
最後に「自制」の実が結ばれば、すべての面で安定し、秩序をもって時に合わせてすべてのことを働かせて実が結べるので、美しく幸いな生き方になります。
私たちが罪を悔い改めて、それにふさわしい実を結べば、神はこれを信仰とみなして喜ばれます。たとえ悪を行なっても、心から立ち返れば、神は悔い改めを受け入れて、憐れんでくださいます。<詩篇103:12>に「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあるように、救ってくださいます。まして正しい生き方をして、善を行なって美しい実を結ぶ人々には、どうなさるでしょうか? 彼らが求めなかった心の願いまでもすでにご存じで、答えてくださるのです。
このような神の心を知って、御霊の実、光の実を結んで、求めることはみな答えられて、神に栄光をささげられますように。
* まとめと適用
1. バプテスマのヨハネがパリサイ人とサドカイ人を厳しく非難した理由は何でしょうか?
2. 御霊の九つの実をみんなで覚えましょう。
3.「私は信仰の父アブラハムの子孫のように生きている」と言えるでしょうか?
* 今週の課題
「悪を憎み、善に親しみなさい。」という聖句はどこにあるでしょうか? 探してきましょう。
* 「用語」を知って力にしましょう!
「光の実」とは?
光であられる神の子どもたちが、真理のとおり行なう時に現れる、すべての実のことである。<エペソ5:9>に「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」とある。「善意」とは、悪のない良い美しい心で、どんな状況でも自分の利益を求めて悪を行なわず、相手の利益を求めて善を行なう心である。「正義」とは、神のことばを信じて、聞き従って行なうことであり、「人は心に信じて義と認められ」とあるように(ローマ10:10)、心に信じてこそ聞き従って行なえる。「真実」とは、偽りがなくて約束を守り、どんな状況でも変わらない、ひたむきな心のことである。
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