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聖書の学び
Title
第15課 「復活の望み」
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2009-04-10
読むみことば: 使徒1:10-11
覚えるみことば: ヨハネ11:25
参考にするみことば: ヨハネ11:26
教育目標
復活の望みの中で善をもって悪に打ち勝ち、霊の愛に満されて、再び来られる主を喜んで迎えられる聖徒になる。
イエス様はすべての人類の罪を贖うために、十字架につけられて死なれましたが、全く罪がなかったので、死の力を打ち砕いて三日目によみがえられました。それで、救い主であるイエス様を信じて、救いの確信がある人は再び来られる主を待ちながら、復活の望みを持って生きていきます。<ヨハネ11:25-26>に「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」とあります。それでは、復活の望みがある人は、どんな心で生きていくのでしょうか?
1. 心の悪を捨てて、善をもって悪に打ち勝ちます
イエス様にはただ善だけがありました。<第一ペテロ2:23>に「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」とあります。イエス様は自分を捕らえて殺そうとする人々を決して憎まず、かえって、彼らが神の摂理を成し遂げるのに悪い道具として用いられることをかわいそうに思われました。神が悪い役割に定められたのではなく、彼らの心が悪いので、自ら悪魔の奴隷になって、神の御子であるイエス様に立ち向かったのです。
イスカリオテ・ユダはイエス様の弟子として、多くのみことばを聞いて神の力を目撃したのに、自分の悪を捨てませんでした。敵である悪魔・サタンは彼の心に高ぶりとむさぼりなどの悪がぎっしり満ちているのがわかったので、彼をそそのかし、結局、彼はイエス様を売ってしまいました。
イエス様はイスカリオテ・ユダのこのような霊的な状態を知っておられたので、彼をかわいそうに思われました。それで、<マタイ26:24>で「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と言われました。
イエス様は、相手が悪を行なうから心が傷ついたり、苦しんだりされたのでなく、悪によって罪を犯して、滅びの道に向かうことが心痛むことだったのです。心が悪で染まっていて、そうするしかない人の子らが憐れだったので、十字架につけられた時さえ、自分に害を与える人々のために祈られました。<ルカ23:34>で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われたように、悪そのものがないので、どんな悪の挑戦にもただ善でだけ対されたのです。このようにイエス様は何の罪も犯さなかったので、「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)という律法の呪いに縛られないで、よみがえることがおできになりました。
私たちも同じです。根拠のない偽りの噂などで困難を経験しても、相手の不義を表に現さず、怒ったり争ったりしないで、かえって相手が善の道、いのちの道に導かれるように祈り、どんな悪にもただ善をもって対せば、神が大いに祝福してくださいます。私たちが悪い人々に不当にも苦しめられる理由が全くないことがはっきりと証明されるからです。これがまさに善をもって悪に打ち勝つことです。
しかし、心に悪があれば、その分、善をもって悪に打ち勝つ力が与えられません。相手が自分を苦しめるからといって気を悪くし、憎らしくなる人は、善をもって悪に打ち勝つことができません。かえって人の心の悪を支配する権威を持つ、敵である悪魔・サタンのおもちゃになってしまいます。もし敵である悪魔・サタンが刺激するままに感情的になって、悪い言葉が出たら、彼らは喜ぶし、もっと悪をかき立てるでしょう。
したがって、ひょっとして悪い感情が起これば、まずは抑えて我慢し、いつもみことばを握って火のように祈り、悪を引き抜かなければなりません。その次は、同じ状況に出くわしても悪い感情が起こらないで、善をもって十分に打ち勝てます。このように一度、二度と善を積んで、公義にふさわしい水準に至れば、以前とは完全に違う次元の驚く祝福がすべてのことに臨むのです。
2. 霊の愛が満ちあふれます
イエス様に愛がなければ、十字架の苦しみはもちろん、復活の栄光もなかったでしょう。しかし、イエス様の心にはこの上なく大きい愛があったので、神のみこころに従ってご自分を低くし、死にまで従われました。魂への大きい愛があったので、罪人たちが受ける死の刑罰を代わりに受けられたのです。このように、私たちも霊の愛を実践するほど、より大きい復活の栄光にあずかれます。したがって、私たちは神と主を行ないと真実をもってさらに愛さなければなりません。
<ヨハネ14:15>にも「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」とあります。主日には必ず教会に出席して、十分の一献金とその他の献金をして、伝道することも主を愛する方法ですが、何より神をまことに愛する証拠は、みことばどおりに生きることです。私たちがみことばどおりに生きるほど、復活の望みもさらに増し加わり、そうするほど世にあるものへの未練がなくなっていきます。将来、永遠に朽ちないものが得られるのに、肉に属するものに未練を持つはずがありません。つかの間生きるこの地上に物質を積むよりは、永遠の天国に積んで栄光を受けようと、後の世にもっと尊いものを得るまことの望みがあるので、献身するようになります。たとえこの地上で努力して手に入れたものだとしても、こだわらないで、渡してもまた渡せます。
主にある務めも、名誉も、権力も、すべて同じです。まず自分が務めを受けたからと、仕えられようとしないで、いつも他の人にまず心を配ります。このような霊の愛で満たされて、教会に新しく来る人々がどんな心の壁も感じないように、穏やかにいだかなければなりません。先に聖潔の福音を聞いたなら、愛の心で後から来た人々に心を配って、ともに復活の望みを持ってすばらしい天国に行けるのです。このような愛の行ないは結果として自分に帰ってきます。神がすべて覚えて、将来、天国で報いてくださるからです。
3. くちびるに喜びと感謝が絶えません
主の復活が事実であるように、私たちも、復活の時に御霊に属するからだによみがえらされ、永遠の天国で生きるようになります。御霊に属するからだは障害もなく、病気にもならないし、疲れを感じることもありません。また、永遠に生きる天国は踏んで歩く道が純金で、あらゆる宝石で飾られた所です。このように幸せで美しい天国の主人が、まさに自分だということを本当に信じたら、どんなことも喜んで、感謝できます。
仮に、皆さんに食べる物がなくて、借金を厳しく督促されているほど困っているのに、明日になれば億単位のお金が入るとしましょう。たとえきょうはつらい目にあっていても、明日のことを考えれば悲しくないでしょう。本当に復活の望みを持った人もこれと同じです。億単位のお金よりも尊い天国が心にあるのですから、この地上の日々が苦しいと思わないのです。
ところが、神を信じていると言いながらも、喜びと感謝を失う人がしばしばいます。世にあるものを望む心があるのに、満たされないので不満がたまって、苦しいのです。まことに復活の望みで満たされている人は現実の困難のために苦しいと思いません。信仰によって喜んで、感謝します。神はこのような信仰を見て、現実的にも感謝できる環境、喜べる状況に変えてくださいます。つまり、問題が解決されて、祝福が臨むのです。
皆さんが「喜び」という実一つだけ完全に心に耕しても、「感謝」という実一つだけ完全に心に耕しても、大きい祝福が受けられます。イースターを起点として、復活の望みで満たされ、不平不満、肉的な悲しみと苦しみをすべて捨て去って、すべての事に完全に喜んで感謝して、霊肉ともに大きい祝福を受けられますように。
* まとめと適用
1. <ヨハネ11:25>を一緒に覚えてみましょう。
2. 復活の望みがある人はどのように生きていくのか、話し合ってみましょう。
3. 億単位のお金よりも尊い天国が心に臨んでいるのに、ひょっとしてつらくて難しい問題が起こったとき、すぐ喜びと感謝を失わなかったでしょうか?
4. 相手が自分をつらくさせるから、気を悪くして感情的になるとします。この時、善をもって悪に打ち勝つには、どうしたらいいでしょうか?
* 今週の課題
主イエス様の受難と復活の御足の跡を四福音書を読みながらたどってみましょう。
* 「用語」を知って力にしましょう!
「イースター」とは?
イースター(復活祭)とは、イエス様が人類の罪のために十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死の力を打ち砕いてよみがえられたことを記念する日である。イースターが幸いなのは、よみがえられた主を信じる私たちも、よみがえって永遠のいのちを受ける望みがあるからである。私たちの人生は目に見えるこの地上の人生がすべてでなく、確かに死後の世界がある。天国と地獄があって、主を信じる聖徒たちはこの地上の人生が終わっても、よみがえって天国に行ける。それで、聖徒たちが死ねば、聖書では「死んだ」と言わずに「眠った」と言うのだ。
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