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| 万民ニュース   第 128 号 | HIT 5641 | DATE 2013-06-23
 
私はどれくらい良い心だろうか?



暗いところが少しもなく、光そのものであられる神は、ご自分の子どもたちも完全な光の中にとどまるように望んでおられる。闇がないことが霊的な権威であり、神の愛と祝福を受ける近道だからだ。下の三つの質問を通して、自分がどれほど良い心に変えられて、光の中にとどまっているのかチェックしてみられるように。



与えることに慣れているか?受けることに慣れているか?

<使徒20:35>に「……また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」とある。ここで「受ける」と「与える」とは、物質だけでなく、時間や努力などが必要なすべての真理の行いを含んでいる。
たとえば、ある人は教会から施しを受けたとき、その恵みに報いるために熱心に信仰生活をするだけでなく、自分も施しをしながら、変わることなく感謝の告白と行いを見せる。一方、ある人は施しを受けたことに感謝の気持ちを表すが、いざ自分はというと行わないことが見られる。施しが良い行いだということを知って、他の人はその善を行ってもらいたいと思いながら、自分は行わないのだ。また、ある人はその恵みに感謝して忠実に奉仕していても、すぐ心が変わったりする。ひょっとして人とぶつかるようなことが起これば、恵みに報いようとしていた心までなくなってしまうのだ。
一方、ある人は、集まりがあるとき、誰が見ていようといまいと、先に来てうまく進められるように準備して、熱心に世話をする。先に行けなくてもっと仕えられなかった時には、むしろ申し訳なく思い、今後そんなことがないように心に留めて実践する。反対に、ある人は習慣のように遅れる。遅刻はしなくても、他の人たちが全部準備しておいて、みんなが集まった後にやって来る。これは、他の人たちが先に来て、準備して仕えてくれるのを受けるだけという習慣があるからだ。
この他にも、ある人は施しやプレゼントすることを楽しんで、あえてしなくてもよいことまでして、周りの人たちに仕える。しかし、相手からありがとうの言葉がなかったり、認めてくれないなど、期待したことが得られなければ、「あの人は礼儀を知らない人だ。高ぶっている」と気を悪くして、あれは何だったのかとむなしくなる。この場合、代価を望む心があるので、神は善だとお認めになれない。
神が認められる良い心、御霊に属する心は、相手が願うことを与えて、心を楽にしてあげるのだ。神は、私たちが一度で終わるのではなく、最も良いものを与えてはまた与えることを願っておられる。このように私たちも「一度仕えてあげたから、やることは全部やった」というのでなく、受けるよりも与えるほうを楽しむ心になるべきだろう。


相手の心を理解してその立場になっているか?

多くの人が、祈る時は仕えと犠牲など良い行いをしたいと求めるが、いざ現実に相手の行動が自分の利益に合わなければ、その人を理解したり受け入れないことが見られる。
たとえば、一緒に奉仕をしていた働き人が早く帰るとき、心の良い人ならば、それだけの理由があるだろうと理解するので、全く気を悪くしない。ただ、さらに熱心に奉仕して、順調にそれを進めていこうとするだろう。
一方、ある人は「私も忙しいのに……あらかじめ約束してあったことだったのに、どうしても今帰らなければならないのか」と思ったり、それどころか「ずるい」と思ってさばいて罪に定めたりする。あるいは「今度私が奉仕することがあるとき、あの人が抜けただけの時間はお願いしなければ」と計算ずくで考えたりする。この場合、奉仕するとしても、神の御前に善の香として立ち上りにくい。「善」のメッセージを心に耕さないで、知識としてだけ入れておいたからだ。
善の基準を自分に適用しないで、相手に適用しながら、自分は善だ、正しいと錯覚することもある。相手とは違って自分は忙しいのに、時間を割いて奉仕しているから、善を行っていると思うのだ。もしこんな人が、自分が先に帰らなければならない状況でひとこと言われたとしたら、どうだろうか?「そうでなくても申し訳ないのに、どうしてあんないやな顔を見せるのか。都合がつく限り何とかして出てきて、一生懸命やったんだから、ありがたいと言うべきではないか」と気を悪くすることもあり、相変わらず自分が正しいとだけ思うこともある。
このように自分の立場と利益だけ考えれば、霊的な善を行えない。心の良い人はすべてにおいて相手の立場で考えるので、自分がもっと楽で良いほうを選ばないで、相手を安らかにしてあげる道、神の国に栄光を帰す道を探すのだ。


秩序に従ってどれだけよく仕えているか?

ある人は目上の人に対するとき、心から仕えないで、秩序にそって従うこともない。その一方で、目下の人が自分に仕えてくれなければ、秩序を乱しているとひどく気に障る。自分の中に高ぶりがあるので、自分に仕えてくれない目下の人が気に入らないのだ。
たとえば、あることを推進しながら、自分を飛び越えて目上の人に報告すると「なんで私には報告をちゃんとしないのか」と思ったり、自分抜きで事が進められるとき、「なんで私がしていたことを、意見も聞かないで一方的に処理するのか」とおもしろくない。ところが、こういう人は、いざ自分はというと秩序に従わないことが見られる。目上の人があることを指示したとき、自分の心に合わなければ、いろいろと思いを巡らして気を悪くし、不平を言うのだ。
もちろん、組織には秩序があって、務めに応じて与えられたことがあるので、各自すべきことをしなければならない。だが状況によって、理解して受け入れなければならない時があって、秩序がちゃんと守られるように柔和な心で正さなければならない時がある。目下の人が秩序を乱しているとき、目上の人が何が何でも理解して受け入れることが霊的な善ではないのだ。
それでは、すべてのことを真理で見分けて、神が喜ばれるほうを選ぶには、どうすべきだろうか? 相手を抑えつけてかしらになろうとする心、仕えられて認められようとする心、自尊心などがあってはならない。そんな時こそ、秩序が乱されないように正すべき状況なのか、目下の人に欠けているところがあっても、理解して受け入れるべきなのか、見分けられるのだ。また、目上の人が祈って示されたことだから従うべきなのか、目下の人の意見を取りまとめて目上の人に提案すべきなのかも、賢く見分けられるのだ。


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